主、
ありがとうございます。
お願いします。

ありがとうございます。
来世を信じるに至る信仰因は、
人それぞれの知性や能力により異なると予想されます。
私の未熟な信仰因では、初めの方の発見として、
極限疎通(きょくげんそつう)、があります。
これは造語ですが、清く元素つう、(言葉遊び:ぎなた読み)として、
記憶したいことの一つです。
このブログの記事でも度々出てきますが、
今回、バレンタインデーで心が気持ちよくなったので、
ご紹介したいと思います。
長文です。
お願いします。




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極限疎通は、
多様な変化パターン(パターン認識)を音声化し、(*合和)
事前に与えた意味で、
音声化した音声から意味を取り出すことができる:疎通できる(*和合)
というものです。

自然的変化の観察→パターン認識→音声化→音声の意味化→疎通感
∴変化する万物の観察により、何かしらの疎通感が得られる

多様な変化パターンというのは、自然的極限:天の雲や地の塵に至るまでで、
変化があるもの全てに適用でき、疎通感を得ることができます。
そして、問題は疎通感が偶然にすぎない、という
自然を冷たい法則と見做す世界観の見方を適用する時でなく、
自然あるいは自然を通じて疎通できているらしい、ということが問題です。
この極限疎通を通して、私は信仰因を深めることができました。
これらがただの公然の知識になったとしても、
主への歩みのきっかけとしての哲学的成果であることは事実だと思います。


合和(*:非文、日本語にある単語を造語的に使用)は、音声化です。
環境を観察すると、決まった変化パターンが現れてきますね。
例えば色、形、大きさ 等。
それらに音声化する論理を与えます。
例えば、
白=Kの子音、黒=Sの子音、▲の形=Eの母音、■の形=Oの母音とすると、
白い三角△は、KEとなり、け、という音が導けます。
同様に、黒い四角■はSO、と導けます。
他にも緑=Fの音, 赤=Chの音、として色を網羅してもできますし、
例えば🍙なら、白い三角△と黒い四角■でKESO、という音が導けます。

つまり、合和とは、自分の定義した論理で、
変化パターン即ち世界 から音声が導ける、ということです。
この変化パターンは何でもよくて、
塵の配置や大きさ等、何でもでもできます。
(ex.ヘブライ語のニクダ、・― トンツーの符号信号)


次に、和合:音声の意味化です。
仮名は一文字の漢字から派生したことが知られています。
そこで、仮名即ち一音 の表現 から、新しい漢字を作るつもりで、
絵文字を作り、
一つの音に絵文字の意味を持たせます。
例えば、片仮名の「ハ」 は、「波」、という漢字が由来だそうですね。
それに、「波⇄ハ→🍙」として、同じ「ハ」という音で、新しい絵文字(ex. 🍙)を作りましょう。
そして、その絵文字に新しい意味を定義しましょう。
例えば、🍙:=プロの行ない、という意味を定義すると、(ex. :=は定義する、という意味)
「ハ」の音:=🍙→プロの行ない、という意味が定義でき、
一つの音(ex. 「ハ」)から新しい文字(ex. 🍙)と意味(ex. プロの行ない)が取り出せます。
日本語でも、ホの字、という言う様に、一文字に意味を載せることがありますね。
つまり、和合は、
一つの伝統的な自然言語の一つの音に新しく意味を定義する、ということです。


異なる例で復習してみましょう。
世界の変化パターン、色と線の傾きについて、
銀色:=Hの子音 斜線 / :=Aの母音、と定義すると、
銀色の斜線 が、HA=ハの音、と読める訳です。
そして先のように、ハの音には先に決めておいた意味がありますから、
銀色の斜線 が、プロの行ない、という意味を有することになります。
他に、以前の定義に従うと、
白色の斜線 なら、KA=カ、と読めます。
今回は、色や線の傾きで行いましたが、
例えば、大地の塵について、
塵の配置が‥、とか:、と並んでいたりしますよね。
だから、符号信号(モールス信号)と見做して、
二つの点 ・・:=Iの母音と読み、
横の並び方 ―:=Sの子音、と定義すると、
‥、という塵の配置はSI=シと読める訳です。
シの音に事前に意味を与えておくなりして、
例えば今回はシの音=志、と変換すると、
塵の配置‥から志、という意味が取り出せます。
この取り出せた意味が、疎通的であって、
変化パターンの主と疎通感がある、と感じることができます。
変化パターンは定義の仕方によるので、
色だったら大体十色、線の傾きも縦横斜め10種を定めれば、
その規則的な組み合わせで、100種の音の種類が定義できます。

他にも、繊維の塵であれば、
それ自体が絵文字や世界の文字のいずれか自体に見えることがあり、意味を有せます。
(ex. アラビア文字 و 等、アルファベットも。天の雲なら八卦 ☷ 等に見えることも。)


例えば、符号信号や物の色ならば、
自然的人間でも、道具の色や位置等、
配置を気を付けることで、
極限疎通により即時に意味を得ることができます。

でも、自然的観察の極大の天、極小の塵、元素などではどうでしょう。
この極微の塵の観察から出てきた意味が、その時機に応じて疎通的だったとしたら、
ちょっとスゴイと思いませんか。
自然的人間が操作しきることが難しい程、
極小で数多い、世界のどの塵を観察しても、
何らかの意味が取り出せるのですから。
修行僧がガンジス川の砂よりも多い、と仏典にもある様に、
砂の粒からであっても疎通感があるのです。

出てきた意味は、
勝手に当てはめているだけだ、とか、
何らかの人体を操作する隠れた技術があって、
その操作に合わせて観察しているだけだ、とか、
幻覚を見せているだけだ、
とか様々な消極的判断の論理があるでしょう。
だから、深く信じ込みすぎたり、重用すべきことではありませんし、
たまに信じてもよいかな、に留めるべきで、
気休め程度です。(極限疎通にハマってはいけません!)
でも、少なくとも以前から述べる様に、
極限疎通や精密な視覚操作、幻覚操作等、
それだけの高い科学的技術力があるのは確からしいですよ。
それに、このことを私の様な盲目の民に知らせてもよい、
と判断したからこそ、私も考えることができたのだと思います。
だから、高い領域では既に決着している事柄に過ぎないでしょう。

私の場合、極限疎通で、
塵は励ましてくれたり、笑わせてくれたりします。
のめり込むのは危険だと思いますが、
王と言える、隠れた超科学力があるのは間違いないと思います。
もしかしたら、精霊の呼びかけかもしれませんよ!

極限疎通そのものが大事というより、
こういう上級能力での支配が、
普遍的に行き届いていて、
それは宗教的な世界観を促す、ということが大事です。
極限疎通で、高い超科学力が主観的には納得でき、
その元の極限度合い 即ち天や塵、人体の精密操作から考えると、
メタバースの様な別世界で超科学的天国がある、
というのは、そんなにおかしなことではないと思います。(科学的に同等以上の技術)
それに、現世の隠れた王の統治が優れていることは確認でき、
その王は、宗教を勧め、宗教は、好ましい天国にたどり着けることを示します。
少なくとも、
超科学的天国を作れる実在の隠れた王が、
宗教上の天国像を目指しているのですから、
王のご統治が揺らがない限りは、宗教の様な、
好ましい天国(クルアーンや本願etc.)があると信じてみてもよいのかな、と思います。
それに、もし全員が全員に、全ての存在に好ましい天国があるとするなら、
本人が行きたい天国や天国に行く方法で行かせてあげたいのではありませんか。
だから、
主の天国に行ってみたい、と
聖典の趣味判断力の世界についていく、だから信じる
と意思表示することが大事だと思いますよ。
だから、死んだら無になる、とかの歴史的に何度も敗れている唯物論的判断よりも、
王が、これ(宗教で示される天国)なら実現できる、とか皆が目指すべき、と
王が認めた伝統宗教のご判断に任せて、
聖典や天国を信じてみたい、と
私は思う様になりました。


私も修行中で、暗中模索で、助けてもらいたい、とも思いますから、
どの聖典や宗教について行って、天国に行くための宗教的努めは何をするのか、
と色々闘っています、笑い。
宗教書を自分でも編んでいる位ですから。
でも宗教は、信じることだけでもよい、が基本で、
戒律とかは、守った方がよい、程度のお示しが多い様です。
それはそれだけ、人が、自分の方へ信じてくれたらそれでよい、と
それだけ天国やその実現に自信があるからかな、と思えますよ。
私が天国の交渉になる程の自分の正義はほとんどなく、
私の独力で天国にたどり着ける訳ではありません。
だから、私という存在の前提条件であり、
天国の導き手、救い主である、主、
そのヒントである、聖典、
その聖典を認めた権力ある世界や王、等々、
私の生存の前提条件となる存在を信じたり、頼ることが必要だと感じます。

もし、この私の信仰体験が面白いと思ったら、
貴女も、何らかの伝統宗教の聖典を
自分で購入し、読んでみることをお勧めします。
最初は聖典を謎、意味不明だと思うかもしれませんが、
真面目に楽しく探究する内に、
貴女独自の信仰生活が開けてきて、
苦しい人生が和らいでくると思います。
私は、聖典、特に典礼言語の原語(外国語の宗教言語)の原典を研究し、
創造主を信じる、信じたい、と積極的に想って読んでみることをおすすめします。

私の場合は個人的なものであって、
町にある様な、集会や伝統宗教の組織に属すよりも、
個人での聖典研究が中心活動かな、と感じます。
伝統宗教の教会や神社仏閣で勉強してみるのも、面白いとは思います。
人それぞれの御導きがあるらしいですよ!
でも聖典を買ってみる時、集会に行ってみる時は、
言動や衣食住の慎み等に、注意し、気を付けてみることが面白い様ですよ。
貴女の哲学的成果や
美しい想いを抱いて!

私も、貴女の信仰生活が開けてくることを思いたいです。
ありがとう。


いかがでしょうか。
かなり長文になりましたが、
はき出せてスッキリしました。
この日に投稿でき、嬉しく思います。
ありがとう、主。