〽天、宝と 信号疎通 天国アリ!

ありがとうございます。
お願いします。
宗教書を書きます。

ぁけふじピョウ ホームページ:
https://sites.google.com/view/myouway-fujiwara/
Myouwayホームページ:
https://fujiwarakensuke.wixsite.com/myouway
原石Blog:
https://fujiwarakensuke.blogspot.com
Mail:
proteinfujiwara0318@gmail.com
Twitter:
藤原 けんすけ@fujiwara_knsk
Works:
http://akesityou.blog.jp/

2018年06月

Uーフリー、自分で自由に決める緩和方法

緩和方法を六つのカテゴリに分類したが、Uーフリー、自分で自由に決める緩和方法について述べたい。
私は、死の恐怖や世界没落体験についてひたむきに考えていくことは許されてもよいと思うし、なにより自分自身で考え、救いを体験していくことが、死の恐怖や世界没落体験の和らぎになると考える。
私自身、和らぎのための方法として、密教や宗教を調べていくうちに、いくつか修行法などが見つかったが、参考にはしているものの、それらをそのまま積極的に実践しようとはあまりしなかった。
効果が信じられるかどうかもあるが、やはり自分で考え、納得した方法でないと続かなかったのである。
だから、和らぎには、それらを考えてもいいんだよという後押しがあれば、あとは自分で考え、自分の方法で実践することが大事なのではないかと思うようになった。
今の私にもいくつか独自の修行法のようなものはあるが、他の人はやらないことかもしれない。
やはり、苦しんでいる当の本人が、主体的に取り組む中にカギがあると思う。
とはいえ、素直な考えをオープンにしたいと考えているから、このところを少し述べたい。

薬剤や手術など、生物として物理的に解決することをしないで、自然的な方法で解決しようとすると、世界観や人生経験の変化、新しい考えや死生観によって解決しようとする方々が多いようだ。
しかし、どんな新しい考えをみても怖いものは怖い。
そう、やはり自分で考えなくてはならないのだ。
私は、このブログにあるように、感覚、環境、意識、表象、宗教的心理、感情、世界観、人生経験、想像、空想などの観点から和らげようとしているが、それらが深まったところで、怖いものは怖いだろう。
それらがより完全に和らぐとしたら、超越的な統治者による恩恵を期待するのだと思う。
救い主と言ってもよいかもしれないが、そのような、私だけの救済者が必要なのかもしれない。
だから、Uー宗教的確約の確信、といったものが、最終的な解決として挙げられるかもしれない。
宗教的確約とはまだ私もよくわからないが、期待すべきよい死後の生やよい世界が与えられることかもしれないし、よき救済者のそばに近づけることかもしれない。
まあ、宗教的確約と表現されるようなもの、救済の約束のようなものだ。
それらを人生を通して、救済者とコミュニケーションして知りたいし、それができたなら、善き生として人生を渡りきることもできるだろう。
その救済者が神様仏様であるかは今はわからないし、現実に生きている隠れた統治者たちの技術によるかもしれず、それを解釈していくのかもしれない。
ただ大事なことは、この方々と共に歩むということだと思う。
それは共同運命的であって、運ばれていく、に近いかもしれない。
私にもあなた方にも、そのような体験ができるようにしたいと思うし、私が掴んだその一部でも伝えたいと思う。

Oー想像、空想的緩和方法

ありがとうございます。
お願いします。

緩和方法を六つのカテゴリに分類したが、
Oー想像、空想的緩和方法(理論知性的緩和)について述べたい。
私は、宗教的な、死後の生についての肯定的空想が緩和方法として役に立つのではないかと思う。
今まで感覚、意識を快や美によって整え、宗教的感情を引き起こすことによって死をデザインすることを述べた。
さらに世界観からも感情は引き起こされるが、想像や空想によっても肯定的感情が引き起こされやすいと思う。
死に際して、死後の生はあるのか、天国や地獄はあるのかと考えてしまうように思うが、このような考えても証明が難しいことは、痛みや苦しみが伴っている時には危険な、危ない妄想が強化されやすいと感じる。
例えば、死んだら息が止まって苦しいんじゃないか、(臨死体験の科学的統計では、心肺停止にも関わらず臨死体験中に好ましい体験や主観感覚も多いらしい。)とか、火葬や埋葬で生き返って苦しむのではないか、(火葬や土葬では、温度が高すぎたり、腐敗によって、苦痛を感じる神経がダメになるから、苦痛はないかもしれない。生きている間に感じる様な寒暑や息を止めた時の様な肉体的苦痛を、埋葬で感じるかもという恐れは、自然科学的論理 等で否定しておきたいと、自己説得する)などだ。
私は、苦痛を伴う時に、地獄や極大苦に対する恐怖を助長するような妄想に取りつかれてしまう可能性があるし、実際、私は過去の苦しみの原体験群の中で死や死後の生について、激しい苦痛にさらされるのではという妄想に取りつかれ、大きな恐怖を味わった。
これらを避けるためとポジティブな快を手軽に得るために、
あらかじめ死後の生について肯定的な想像をしておくとよいと思う。
自らの想像によって、死に際して、死後の生の世界観やどういうことを空想のように体験したいのかを、いわば自己訓練しておくのだ。
これは既存の宗教を参考に、(ex. クルアーンの天国、弥陀の本願etc.)それらの世界観を取り入れてもよいだろうが、自分の望むことを素直に期待するのがよいと思う。
自分の欲求や人格の品性もわかるため、精神衛生上よいとも思う。
最初はみだらな妄想に過ぎない内容でも、
宗教などを元に考えていくと、エネルギーの湧いてくる想像がしやすくなると感じた。
例えば、
主語が私や人間、であれば、組み合わせる動詞の空想によって、(私は空を飛ぶ、人間が魔法をつかう)
どこに向かうかわからないところがあるが、
主語が神や仏なら、そのよいイメージが保たれている場合は、組み合わせる動詞に何を指定しても、
ハッピーエンドが空想できるはずだ。
さらに世界自体がこの世とは異なる世界を空想することもできる。
空想のベースは大自然や文化に注目するだろうが、この世では苦しまざる得ない私が、どんな世界であれば幸福なのか、ということを考える必要があると思う。
意外に詳細まで具体化できないし、今の自然や文化から完全に離れた世界の空想は非常に難しいことから、この世界が一つの基礎モデルとして、とても優れていることが分かり、宗教的感情も引き起こされやすいと感じる。
宗教では死後の生の物語を提示するが、そのモデルから離れた想像もなかなかに難しい。
宗教も卓越した方々が遺してきたことだから、世界観もよくできていると思う。
自分の幸福についての独自の観想はかなり難しいから、
思考によってそれを具体化しておくのがよいと思う。
それに、
神仏を信じていく過程で、空想以上のよい世界があることを感じられれば、
そしてそれが結晶化できれば、問題の緩和方法になると思う。
私が、危ない妄想に至らない様に、事前に正しい頭の働かせ方のガードレールを敷いておくこと、それが空想や理論知性による緩和になると考えている。
卓越した理論知性による世界の空想は一つの世界観ともなるかもしれないね。

ありがとう。
お疲れ様です。


Eー世界観、人生経験的緩和方法

ありがとうございます。
お願いします。

緩和方法を六つのカテゴリに分類したが、Eー世界観、人生経験的緩和方法について述べたい。
多くの方々はこの緩和方法によって緩和させたいと考えていると思う。
確かに世界観は心理にも繋がる要素があり、重要だと思う。
私は、緩和方法として、宗教的あるいは形而上的な内容を認める世界観が実践的だと思う。

私は、王の隠れた実在の確信と極限疎通 等をこれからも進化しうる信仰因の一つとた上で、
好ましい来世の存在を信じていきたいと思う。
それにより、宗教的あるいは形而上的な内容に高い関心を持ち、癒しを得たいと思う。

宗教的、形而上的世界観と言っても必ずしも既存宗教にこだわる必要はないが、死の恐怖に対して実践的な考えが歴史の中で洗練され、エリートが遺してきているものが世界宗教であるし、私自身、死の恐怖についての対策を考えている中で、何度も世界宗教の思考法や実践と図らずも一致することがあった。
例えば、教会にも参加することがあったが、死の恐怖に効きそうな、あるいはトータルペインに効果のありそうな考察を生む実践がなされていた(賛美や祈りなど)と思うし、共同体があることは、苦しい生にあっても効果があると思う。
それにuー宗教的心理、感情的緩和方法でも述べたように、最期の死の間際に抱く快的感情として、宗教的心理や感情は死のデザイン上、有用だと思うから、それを強化するような世界観となると、オリジナルでも良いから、宗教的、形而上的な内容を認めることになると思う。
そして、私が経験した、世界没落体験とも言える激烈な恐怖体験の中で、唯物論的科学信者の様な無神論的思想による、死の結末が無であるというやや世俗的な世界観と、何か仕組みはわからないが、死後の生があるという世界観を天秤にかけると、後者を選んだ。
恐怖体験前までは、科学信者で、宗教も葬式仏教程度の関わり方、死んだら無になるという世界観だったのだが、
超自然量の人為的な恐怖経験、の原体験の中で、無になる恐怖にかてず、激烈な恐怖を味わったし、霊か無かを天秤にかけた時に、自身が霊になるなりして、霊という死後の生のようなものがあってほしいと強く望んでしまった。
霊を認める立場にも、地獄についての恐怖など、確かに問題はあるが、無になるという過程を深く認識してしまったら、それに恐怖することは耐えられそうもないし、安楽な死後の生を想う方が死の恐怖を和らげるのに実践的だと感じている。
では具体的にどのような世界観なら良いのかということだが、世界宗教を流用しつつ、オリジナルで考えることがよいのではないかと思う。

神仏をはじめ、超越的な統治者を認めること、死後の良い生を信じることなどが具体的な世界観の土台となると思う。
神仏がおられるかおられないか、霊や死後の生があるかないかを論じるのではなく、
神仏がおられる、よい死後の生があると考えることが、死の恐怖の緩和として実践的だから、
という理由で信じていくのもよいのではないかと強く感じている。
確かに この世には苦しみがあり、そう信じることが難しいかもしれないが、
神仏や死後の生を認める立場に立つと、この世の苦しみに対しても結構 説明がつく感じを受ける。
説明だけなら、何事にも論理建つものだが、元素での極限疎通やさせられ体験 等の実体験で、
実際の隠された権力の大きさを知ると、説明を実現しうる能力や、知性に裏付けされた、権力の倫理的高さを感じることができた。
私が知るだけの世界では、苦しみが多い盲目的な法則による世界だけだと考えるより、死後の生や安楽な世界があることを考えた方がよく生き抜けるし、最期の心理や感情もよいものとなる可能性が高いと感じることができ、それは先の権力の保護のお蔭だとも感じられる。
たとえば、この苦しい この世の生の後に、
神仏の近くで、苦しみがなく、永く安楽な死後の生、好ましい来世が、
千年、万年、お望みなら億年よりもっと長い時間感覚で、あるとしたら、
それでもこの今の私の苦しみが全く不要であると言い切るのは難しいのではないか、迷うのではないかと思う。
私の苦しみを善用できない無知無能を嘆くのであり、
安楽な死後の生では、この世の苦しみを懐かしむようになるのではないかと。
少し考えただけでも和らぎがありそうだから、宗教的、形而上的世界観は有用だと感じられた。
私は、宗教的、形而上的世界観によって思考を基礎づけ、死の恐怖や苦しみの原体験 等を和らげる思想を成したいと考えている。

ありがとう。
お疲れ様です。


記事検索
最新コメント
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

fujiwarakensuke202...

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ