緩和方法を六つのカテゴリに分類したが、Uーフリー、自分で自由に決める緩和方法について述べたい。
私は、死の恐怖や世界没落体験についてひたむきに考えていくことは許されてもよいと思うし、なにより自分自身で考え、救いを体験していくことが、死の恐怖や世界没落体験の和らぎになると考える。
私自身、和らぎのための方法として、密教や宗教を調べていくうちに、いくつか修行法などが見つかったが、参考にはしているものの、それらをそのまま積極的に実践しようとはあまりしなかった。
効果が信じられるかどうかもあるが、やはり自分で考え、納得した方法でないと続かなかったのである。
だから、和らぎには、それらを考えてもいいんだよという後押しがあれば、あとは自分で考え、自分の方法で実践することが大事なのではないかと思うようになった。
今の私にもいくつか独自の修行法のようなものはあるが、他の人はやらないことかもしれない。
やはり、苦しんでいる当の本人が、主体的に取り組む中にカギがあると思う。
とはいえ、素直な考えをオープンにしたいと考えているから、このところを少し述べたい。
薬剤や手術など、生物として物理的に解決することをしないで、自然的な方法で解決しようとすると、世界観や人生経験の変化、新しい考えや死生観によって解決しようとする方々が多いようだ。
しかし、どんな新しい考えをみても怖いものは怖い。
そう、やはり自分で考えなくてはならないのだ。
私は、このブログにあるように、感覚、環境、意識、表象、宗教的心理、感情、世界観、人生経験、想像、空想などの観点から和らげようとしているが、それらが深まったところで、怖いものは怖いだろう。
それらがより完全に和らぐとしたら、超越的な統治者による恩恵を期待するのだと思う。
救い主と言ってもよいかもしれないが、そのような、私だけの救済者が必要なのかもしれない。
だから、Uー宗教的確約の確信、といったものが、最終的な解決として挙げられるかもしれない。
宗教的確約とはまだ私もよくわからないが、期待すべきよい死後の生やよい世界が与えられることかもしれないし、よき救済者のそばに近づけることかもしれない。
まあ、宗教的確約と表現されるようなもの、救済の約束のようなものだ。
それらを人生を通して、救済者とコミュニケーションして知りたいし、それができたなら、善き生として人生を渡りきることもできるだろう。
その救済者が神様仏様であるかは今はわからないし、現実に生きている隠れた統治者たちの技術によるかもしれず、それを解釈していくのかもしれない。
ただ大事なことは、この方々と共に歩むということだと思う。
それは共同運命的であって、運ばれていく、に近いかもしれない。
私にもあなた方にも、そのような体験ができるようにしたいと思うし、私が掴んだその一部でも伝えたいと思う。
私は、死の恐怖や世界没落体験についてひたむきに考えていくことは許されてもよいと思うし、なにより自分自身で考え、救いを体験していくことが、死の恐怖や世界没落体験の和らぎになると考える。
私自身、和らぎのための方法として、密教や宗教を調べていくうちに、いくつか修行法などが見つかったが、参考にはしているものの、それらをそのまま積極的に実践しようとはあまりしなかった。
効果が信じられるかどうかもあるが、やはり自分で考え、納得した方法でないと続かなかったのである。
だから、和らぎには、それらを考えてもいいんだよという後押しがあれば、あとは自分で考え、自分の方法で実践することが大事なのではないかと思うようになった。
今の私にもいくつか独自の修行法のようなものはあるが、他の人はやらないことかもしれない。
やはり、苦しんでいる当の本人が、主体的に取り組む中にカギがあると思う。
とはいえ、素直な考えをオープンにしたいと考えているから、このところを少し述べたい。
薬剤や手術など、生物として物理的に解決することをしないで、自然的な方法で解決しようとすると、世界観や人生経験の変化、新しい考えや死生観によって解決しようとする方々が多いようだ。
しかし、どんな新しい考えをみても怖いものは怖い。
そう、やはり自分で考えなくてはならないのだ。
私は、このブログにあるように、感覚、環境、意識、表象、宗教的心理、感情、世界観、人生経験、想像、空想などの観点から和らげようとしているが、それらが深まったところで、怖いものは怖いだろう。
それらがより完全に和らぐとしたら、超越的な統治者による恩恵を期待するのだと思う。
救い主と言ってもよいかもしれないが、そのような、私だけの救済者が必要なのかもしれない。
だから、Uー宗教的確約の確信、といったものが、最終的な解決として挙げられるかもしれない。
宗教的確約とはまだ私もよくわからないが、期待すべきよい死後の生やよい世界が与えられることかもしれないし、よき救済者のそばに近づけることかもしれない。
まあ、宗教的確約と表現されるようなもの、救済の約束のようなものだ。
それらを人生を通して、救済者とコミュニケーションして知りたいし、それができたなら、善き生として人生を渡りきることもできるだろう。
その救済者が神様仏様であるかは今はわからないし、現実に生きている隠れた統治者たちの技術によるかもしれず、それを解釈していくのかもしれない。
ただ大事なことは、この方々と共に歩むということだと思う。
それは共同運命的であって、運ばれていく、に近いかもしれない。
私にもあなた方にも、そのような体験ができるようにしたいと思うし、私が掴んだその一部でも伝えたいと思う。